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経営戦略のバイブル

第44号 コラム・ランチェスターで斬る【弱者が強者に変わるとき】

身近な話題から勝ち方の原理原則を考えるコラム
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■ランチェスターで斬る〜【弱者が強者に変わるとき】〜■■■
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先日、信州長野に行ったとき、お昼に「峠の釜飯」を食べました。そう、駅弁日本一の、あの土釜に入ったお弁当です。
久しぶりに食べると、しみじみと旨かった。

函館本線森駅の「いかめし」、北陸本線富山駅の「ますのすし」などなど全国に名物駅弁数あれど、やはり関東では「駅弁といえば・・・峠の釜飯」「峠の釜飯といえば・・・日本一の駅弁」といえるでしょう。
信越本線横川駅の荻野屋の「峠の釜飯」は日本一の駅弁です。

この「峠の釜飯」をパクついておりましたところ、しみじみと思いました。

これも、ランチェスターだと。

しかも、あるとき、弱者の戦略から強者の戦略に見事に切り替えています。
弱者から強者への転換は極めて高度な戦略であり、そのタイミングを見誤ると、事業が水泡に帰すリスクの高いものです。

しかし、弱者は生涯弱者であっては夢も希望もありません。
私は、弱者はいつの日か強者となるべき、との立場です。
「峠の釜飯」はその典型的な事例だろうと思います。

ということで、今号は駅弁日本一の「峠の釜飯」を斬ります。

なお、本稿は駅弁に詳しい方や信州・上州に縁深い人には珍しい話ではないかもしれません。あらかじめお断りします。


▼よそになく、暖かい駅弁を▼


荻野屋は、創業明治18年(今年は115周年)、我が国でも一、二を争う老舗です。
ですが、昭和33年の「峠の釜飯」発売以前は横川駅で細々と駅弁を売っていた本当に零細な駅弁屋さんだったそうです。

横川は、群馬県下第一の都市・高崎と、日本一の避暑地・軽井沢に挟まれたマイナーな駅です。
駅弁は、メジャーな高崎や軽井沢で買うのが普通でしょう。
日にわずか30個くらいしか売れなかったといいます。

並大抵の弁当では売れません。便利な高崎や軽井沢でなく、わざわざ横川で買おうと思わせる理由がいるのです。
そこで、よそにない変わった弁当で、かつ、暖かい弁当(横川は冬場の寒さが特に厳しい)を作ろうとしたのです。

しかし、そう都合よくグッドアイディアが出るわけもなく、出たアイディアがすぐに商品になるわけでもありません。
実に7年の紆余曲折、試行錯誤の上に出来上がったものが「峠の釜飯」です。

*この開発ストーリー、高見澤みねじ4代目社長、田中トモミ(社長の実妹で副社長、峠の釜飯の立役者)の経営物語、姉妹愛については田中トモミ著「天からの贈り物―『峠の釜飯』誕生秘話」アドア出版をお読みください。
私も感動しました。名作です。古本がアマゾンで手に入ると思います。

「峠の釜飯」が発売された時代、駅弁の上限は100円だと、鉄道管理局が定めていたそうです。
土釜を一個あたり38円で仕入れていた荻野屋は、それでは作れません。
120円という当時の常識外の価格を設定しました。
また、食べた後の空箱ならぬ空土釜の問題など鉄道管理局の許可が下りるまで半年、10数回も通ったのこと。
発売されても売れるまでは、重いので売り子が嫌がったといいます。

おそらく「峠の釜飯」は駅弁の玄人では発想できなかったでしょう。
素人の、それも女性ならではの発想だったのではないでしょうか。

こうして益子で焼いた土釜を器に、釜飯風の駅弁、すなわち、よそになく、暖かく横川駅でしか手に入らない名物駅弁「峠の釜飯」が発売されました。


ランチェスター弱者の基本戦略は「差別化」です。
土釜はパッケージを差別化し、弁当の保温効果となり、暖かさをも差別化したのです。


▼釜飯とその時代▼


ただし、発売したからといって、すぐに売れ始めるわけではありません。
売れはじめたのは、雑誌・文芸春秋に一言「釜飯弁当はイケル」とコラムに書かれたのが、きっかけだといいます。マスコミのパワーは40年以上前からスゴイのですね。

昭和33年とは、長嶋茂雄がプロデビューした年です。
一万円札が登場し、東京タワーが完成、新幹線の前身の「ビジネス特急こだま」東京―大阪間6時間50分が開通した年です。
高度経済成長時代の到来です。

そして昭和33年の年末に皇太子妃(現在の皇后)が決まり、ミッチーブームが
巻き起こります。ミッチーといえば軽井沢。皇太子(現在の天皇)とテニスをお
楽しみになる映像は今でも、ときどきテレビでやりますね。

戦後十数年、やっと余裕が出てきた庶民が、軽井沢へドッと押し寄せたのです。
当時、自動車を保有している家庭はまだ少数派。てんとう虫と呼ばれたスバル360の時代ですから。
多くは鉄道で、横川を経由して軽井沢を往復するわけです。

実は、横川駅は、碓氷峠を越えるために機関車を増結したり、反対に峠を下りてきた列車から機関車を切り離したりするために、必ず列車が停車していました。
この停車時間がかっこうの駅弁タイムとなったのです。

土釜は、そのまま家庭で一合のご飯が炊ける本物の土釜で、塩や味噌を入れる容器にもなるし、植木鉢の代用にだってなります。
まだまだモノを大切にしていた昭和30・40年代、主婦を中心に土釜を持ち帰り、旅の思い出としたのでしょう。

こうして「峠の釜飯」は信越本線の名物駅弁となり、後には、その圧倒的な個性としみじみ旨い味で、駅弁日本一となったのです。
平成8年には販売累計1億個を突破しました。


しかし、好事魔多し。新幹線開通に伴い、軽井沢⇔横川間は廃線となりました。
駅前の国道18号線も信越自動車道の開通に伴い、幹線道路からはずれました。
横川駅とその周辺は平成になって完全に時代に取り残されたのです。

もはや「峠の釜飯」は古きよき昭和の思い出となってしまうのでしょうか。


▼大鑑巨砲主義▼


それがとんでもないのです。
今や、荻野屋はコンツェルンといっても過言ではないでしょう。
駅弁をドライブインで飲食店として売りまくっています。
その規模も半端でありません。

・横川ドライブイン店(昭和37年開業)1,000席
・諏訪インターチェンジ店(昭和58年開業)1,800席
・佐久ドライブイン店(平成6年開業)1,250席
・長野ドライブイン店(平成9年開業)1,000席

バス旅行、ドライブルートの一等地に地域最大規模の1,000席以上の超巨大店舗を出店しているのです。
地域一等地に地域最大規模の店舗を出店する戦略を私は戦前の海軍のドクトリンになぞらえて「大鑑巨砲主義」と呼んでいますが、荻野屋の戦略はまさに、これ。
典型的な強者の戦略に切り替えているのです。

全国の駅弁ファンが涙した(?)軽井沢⇔横川間の廃線に伴う「峠の釜飯」をもう横川駅で食べられないというせつない物語で同情を集める一方で、実は荻野屋は強者の戦略に完全にシフトして、したたかに儲けていたのです。

今日では小型店舗も含めて全5千数百席で、年間450万個の釜飯が食べられているとのこと。


私が食べたのもバス旅行で立ち寄った長野ドライブイン店です。
バス旅行ですから半ば強制的です。
選択の余地はありません。
1,000席の大食堂で皆が一斉に釜飯をパクつく風景を想像してみてください。
ちょっと、笑っちゃうでしょう。

でも、旨かったですよ。
しみじみと。


▼まとめ▼


立地さえよければ、普通のものであれば、普通に売れます。
が、立地が悪ければまじめによいものを売っていても、あまり売れません。
そこに、そんなよいものが売られていることすら、知られていないからです。

立地が悪ければ、あるいは知名度が低ければ、相当な工夫をして、話題性をつくり、わざわざそこで買う価値や意味を作り出さなければなりません。
それには非常識な発想が必要です。
ランチェスター弱者の基本戦略=差別化とはそういうこと。

荻野屋は商品=峠の釜飯、販路=信越本線・横川駅の一点集中主義の戦略で成功します。
ピーク時には一日4,000個も一駅で売ったといいます。
が、それがMAX。
それ以上はこの販路だけでは無理です。
また、この販路への一本かぶりは、万一の時には全滅を意味します。リスクは分散させる必要があるのです。

そこで、荻野屋はドライブインに販路を拡大します。
そのやり方は軒先を借りて販売する駅弁方式ではなく、自前で店舗をつくり飲食店として釜飯を売る方式をとりました。

しかも「駅弁日本一」というブランドを最大限に活用し、一等地に最大規模の店を出店するランチェスター強者の戦略の典型である「大鑑巨砲主義」です。
こうして売上を3倍以上に拡大したのです。


荻野屋は「駅弁日本一」の称号が定着した昭和50年代か、長野新幹線開通が本決まりとなった同60年代に弱者の戦略から強者の戦略へ切り替えたと、私はみています。


投稿者 戦国マーケティング : 2004年10月12日