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身近な話題から勝ち方の原理原則を考えるコラム
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■ランチェスターで斬る〜【信長の桶狭間の勝利は奇跡?必然?】〜■■■
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私が、本格的にランチェスターの勉強をはじめたのは8年前のことです。
NPOランチェスター協会の多田眞行先生の講義をお聴きしてからです。
それ以前から本は読んでおりましたが、やはり、一流の講義を受講すると理解のレベルがまるで違う。
ハラワタに染み入るように、私の中に勝ち負けの原理原則という軸が、モノサシが、入りました。
講義を受講しながら、ふと、織田信長のことが頭によぎりました。
私は子供の頃から歴史好きで、親しみ、楽しみながら歴史を勉強してきました。
よく誰が一番好き?と、聞かれるのですが、誰か一人しか、あげてはならないのならば、それは、もう圧倒的に信長です。
信長といえば、桶狭間の合戦ですね。歴史にあまり興味のない人でも知っている大変有名な出来事です。
歴史を変えた大事件といってもよいでしょう。
信長は今川義元率いる大軍を少数で倒し、戦国の世に鮮烈なデビューを果たします。
この歴史的大事件は、よく奇跡だとか、運が良かったと語られることが多いようです。
なかには今川義元は公家かぶれのバカ殿だった、なんて意見も。
しかし、私はそうではない。
天才・信長ほどの男が、奇跡で勝ったわけはない。
必然的に勝ったのだ、と信じておりました。
また、今川義元とて、東海一の弓取り(武将)と呼ばれた男。
戦国の世にバカ殿で通用するはずもない。
しかし、私はそれをうまく整理して語るだけのモノサシをもっていなかったのです。
そこで講義の後、復習を兼ねて、ランチェスターというレンズを通して桶狭間の合戦を見ることにしました。
そうすれば信長の勝ちパターンというものが見えるのではなかろうかと思ったのです。
ランチェスター弱者の5大戦略で桶狭間の合戦を斬ってみると、ものの見事に、その勝因が分析できたのです。
私は感動しました。
長年、心に引っかかっていたことが、一瞬にして解決したのです。
その喜びとともに、「ランチェスターは本物だ!スゴイものに出会ったな」と。
それ以来です。私が世の中の森羅万象をランチェスターで斬り始めたのは。
何もメルマガのために斬っているのではないのです。
勝ち負けの原理原則を知っていれば、何でも斬りたくなるものなのです。
というわけで、前置きが長くなりましたが、今回は、織田信長の桶狭間の合戦をランチェスターで斬ります。
今日、ランチェスターの専門家になるきっかけを作ってくれた、私の原点です。
まずは、簡単に桶狭間の合戦がどういう戦いだったかをふりかえり、その後、斬ってまいります。
▼なぜ、桶狭間の合戦が起きたのか▼
1560年、桶狭間の合戦が行われたときの東海地方の戦国大名の勢力圏は、このようでした。
・尾張(愛知県西部)約50万石は信長が一族間の血で血を洗う抗争の末、ようや
く統一しつつありました。信長はこの抗争の中で、実弟をも粛清せざるをえま
せんでした。
・尾張の東方、駿河・遠江・三河(伊豆地方を除く静岡県全域と愛知県東部)約
100万石を今川義元が支配していました。東海随一の勢力です。後に徳川家康と
なる松平元康は当時、今川家の一武将でした。
・尾張の北方、美濃(岐阜県南部)約50万石は斉藤義龍が支配してします。先代
の斉藤道三時代は信長と同盟関係になりましたが、この頃は緊張関係にありま
す。
・尾張の西方、伊勢は群雄が割拠している状態で、まとまった勢力はありません。
さて、合戦にまつわる地理関係は下記の地図がわかりやすいです。
以下は下記地図を見ながらお読みになることをお奨めします。
⇒ http://www.a-namo.com/ku_info/midoriku/page/oke_map.htm
今川義元は、その勢力圏を尾張へと伸ばしてきました。
尾張の東端、知多半島の根元の三つの城(沓掛・鳴海・大高)を外交で今川方に寝返らせたのです。
この橋頭堡により知多半島は今川方が実効支配することとなります。
せっかく尾張を統一しつつあった信長の首根っこに匕首(あいくち)を突きつけるようなものです。
信長は尾張から今川勢力を追い出すために、鳴海・大高の二城を五つの砦で囲み、封鎖します。
三河との国境にある沓掛城は置いておき、まずは、自分の本拠地・清洲に近い二城を奪還しようとするのです。
二城は陥落寸前まで追い込まれます。
こうなると今川義元もだまってはおられません。
二城を救援し、織田勢力を追い払い、知多半島の領有権を確保すべく軍事行動を起こします。
これが織田・今川両家が衝突する桶狭間の合戦が起こる原因です。
古来、桶狭間の合戦は、今川義元が上洛軍(京都進攻)を起こし、通り道の信長を踏み潰そうとして起きたもの、と語られることが多いようですが、実際には知多半島の領有権をめぐる両国の軍事衝突と見るのが妥当でしょう。
▼信長の戦略コンセプト▼
1560年、今川義元は尾張に侵攻します。
総兵力推定2万。
兵力5千の軍団を4軍団編成にしたといわれています。
一方、信長の総兵力はわずかに3千。
兵力比、実に6.7倍です。
まともに戦って勝てる道理はありません。
信長の重臣たちは軍議(軍事会議)を開き相談しようとか、清洲城に立て籠もり、救援を待ちましょうなどと、信長に進言します。
が、信長はそんな声を無視します。
仮に軍議を開いても、よい知恵が重臣から出るあてもなく、友軍がいない籠城(ろうじょう)をしても座して死を待つだけのこと。
スパイが紛れ込んでいる可能性の高い状況下で軍議を開いても、リスクが高まるだけなのです。
ただ一つ、信長は手を打ってあります。
それは、今川義元その人の動きを探索させ、リアルタイムで、彼のいる場所をつかむようにしたことです。
梁田政綱という武将にそれを担当させます。
梁田の配下には蜂須賀小六などの野武士集団がいたといいます。
信長の戦略コンセプトは、次の通りです。
・2万対3千が正面衝突して3千が勝てるわけがない。
・2万という大軍は平野部では一つに固まることはできるが、丘陵地帯では一つ
に固まっていることはできない。いくつかに分散せざるをえない。
・敵が、鳴海・大高の両城を救援した後、天白川を越えて平野部に侵攻してきた
ら、大軍が大軍として機能してしまうので、勝ち目はない。が、沓掛と鳴海・
大高間は丘陵地帯であり、この周辺なら敵勢力は分散しており、兵力比におい
てよい勝負ができる。
・つまり、この丘陵地帯のどこかで戦うしかない。
・さらに、その敵勢力を分散、分断させるために囮(おとり)を使うなどの工夫
をする。
・そうすれば、いつか、どこかで、敵勢力と味方勢力が総兵力にかかわらず、局
所での兵力比において逆転する可能性がある。そこが決勝点である。
・このコンセプトは敵に知られてはならない。信長は無策だと敵に思わせておく
べきだ。
▼合戦の推移▼
両軍は次のように動きました。
今川1
松平元康などの別働隊5千を先発させ、大高城を救援させる。
義元前衛隊5千を鳴海城方面へ出発させる。
義元本隊と義元後衛隊は沓掛城にて待機。
織田1
総兵力3千のうち、1千を5つの砦に配置。
残2千を信長が率い、鳴海城にほど近い熱田神宮へ進める。
今川2
大高城を囲む織田方2砦を陥落。
本隊5千は大高城を目指し、出発。
桶狭間方面へ。
織田2
本隊は鳴海城を囲む砦に到着。
砦部隊が、今川前衛隊へ突入。
今川3
前衛隊、織田砦部隊を粉砕。
本隊5千は、桶狭間方面でいくつかに別れて休憩。
義元本陣はわずか3百騎で田楽狭間で休憩。
織田3
信長本隊2千が、義元休憩を察知し、奇襲突撃。
この局所において今川3百:織田2千と、兵力比が逆転。
義元討ち死。
今川軍は総崩れ。
織田軍、深追いせず、合戦終了。
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さて、この合戦をランチェスター弱者の5大戦略で分析し、信長の重要成功要因を把握することにします。
が、長くなりますので次週、それをお届けします。
よろしければ、読者様も考えてみてください。
ランチェスター弱者の5大戦略とは次の通りです。
・局地戦
・一騎打ち戦
・接近戦
・一点集中主義
・陽動作戦
投稿者 戦国マーケティング : 2004年10月26日